ペナク・オントゥル・リンポチェ

Kangsar Dambee Onshu Rinpoche

キャブジェ・ペナク・オントゥル・リンポチェ(カンサル・ダンベイオンシュ・リンポチェ)は、ニンマ派のロンチェン・ニンティクの師です。ニンマの六大寺院の1つペユル寺の流れに属しています。1938年アムド地方(青海省ゴロク州)の牧場主の家に生まれました。

1936 年に入滅した埋蔵経発掘者(テルトゥン)であるペナク・オンポ・リンジン・ドルジェの転生者として認定され、ゲルク派のラブラン寺のTenpa Gyaltsen Rinpocheよりテンピー・オンシュー(テンペ・ワンチュク)(「仏法自在の意味)の名を与えられました。また翻訳官ヴァイローツァナ(※ヴァイロー ツァナの化身とされているのがトクデン・リンポチェ)の第一の弟子であるユダ・ニンポ(Yudra Nyingpo)の化身と信じられています。

幼年より勉学に秀で、ゾクチェンを中心にニンマ派、カギュ派、サキャ派、ゲルク派、チョナン派の師から各派の教法を学ばれました。1958年に、チベットは 中国の進攻を受けました。リンポチェは教法の勉強を中断し、故郷に戻り、密かに縁のあった弟子達に法を教えたり、埋蔵経を発掘したり、数多くの作品を書き 記されました。

そ して文化大革命のとき、無実の罪で収監されました。獄中での厳しい環境に苦労しながらも、アチェ・トクデン・リンポチェや、ペユル・チョダル・リンポチェ などの大成就者からゾクチェンの深い口訣や教法を学び、危険な状況下でも他の入獄者に教法を授けました。12年間の獄中生活のあと、無罪で釈放され、故郷 に戻りました。

当時は、経済を始め各方面が苦しい状況だったにも関わらず、アムド地方の ゴロクにタクルン寺を建立されました。また各派のラマたちはペナク・リンポチェに法を求めるようになり、一般の弟子も数え切れないほどとなりました。リン ポチェは各大寺院に招かれて法を教授することもありますが、いつも近隣の寺からもラマが集まり、千人規模の聴衆が集まります。

リ ンポチェは数多くの作品やテルマを書きましたが、一部は文化大革命のとき失われ、現存するのは「サンド・パァリの祈願文への解説」、「クントゥ・ザンポ祈 願文」の解説、「ナムカ・ティンダル」の解説、「イェシェ・ラマ」の解説、ミパム・リンポチェのテキスト「ゲシェ・ドンメ」と「知者への方便入門」の解 説、「ガラブ・ドルジェの三要訣」の解説など、数十冊のみです。また文法、暦法、歴史、文化などにまつわる著作もあります。

また漢民族が食への執着から多くの生き物を殺生することに心を痛めたリンポチェは、自らの財産と、貴重な法具を売却し、またチベット人たちからの供奉金で、 1995年より三年連続、四川省成都で放生のイベントを行い、トラック100台分以上の魚介類を死の淵から救い出されました。

以前、リンポチェのラマから、時機が熟したとき漢民族の衆生に法の縁を作るように言われていたので、1999年7月、中国内地の信徒がリンポチェに教えを請うたので、ゾクチェン教法の灌頂を行いました。

それ以来漢民族の弟子も増え、放生のイベントも続け、数え切れないほどの生き物を救い出しました。

現在リンポチェには数多くの弟子がおり、北京、天津、上海、東北三省、福建、廣東、四川、湖北、香港など中国各地のほか、カナダなど海外からの弟子も多く訪れています。