2010年ゾクチェン旅行記

~サンド・パァリ寺落慶式に伴って~

ゾクチェン到着(7月18日)
~サンド・パァリ~

 ※日本人及び日本在住の方の名前は基本的にmixi名で、mixi名がない方は苗字のアルファベット頭文字で表記しています。

ゾクチェン村を抜けた車が、ゾクチェン谷の狭い入り口に入る。道の両側の山の斜面に、緑の草がじゅうたんのように敷き詰められ、谷の奥まで続いている。右手に赤を基調とした壁と金色の屋根の大きなお寺が見える。
自分の記憶のデータベースにアクセスする。まさに写真で見たゾクチェン寺だ。
想像していたとおり、きれいで大きなお寺だった。
ゾクチェン寺の背面の谷の斜面には、ルンタが模様のように広がっている。
「このゾクチェン寺の後ろの緑の斜面に僧侶が並んで、空を見る瞑想をしたりするんだよ」と妻のペマ
『う~ん、まさにチベット!』

谷の両側の山は、2~300メートル位で、車のフロントガラスから見える範囲の奥の奥まで続いている。
その山の斜面が緑の草のじゅうたんに覆われている。
そして谷の奥の向こうに高い山脈があり、ちょうど谷の正面に高い雪山があって、緑のじゅうたんと見事なコントラストになっている。
谷底の中央を1本の道が縦断しており、その道の両脇にチベット風の建物が点在している。
山の上は空しかないから、閉ざされた空間のように見える。つまりこの谷にいると見える世界全てが聖地であり、聖地以外の余計なものは何も眼に入らない。
「これがゾクチェンか!!」自分は何年も夢見てきた聖地にとうとうやってくることができたんだ。

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「うん!?ゾクチェン寺?ゾクチェン谷?・・・ゾクチェンって修行法じゃないの?」
「ゾクチェン・ラニャック・パトゥル・リンポチェ?へ~、修行法をダルマネームの頭に付けているんだ?」

2001年、今から9年前、初めてゾクチェンのことを耳にしたとき、よく意味がわからなかった。
も ちろんゾクチェンという修行法は本を読んで知っていた。あこがれてもいた。しかし「ゾクチェン寺」というお寺が「ゾクチェン谷」にあって、ゾクチェン谷の 唯一の出入り口にある村をゾクチェン村といい、ゾクチェン谷を中心とした地域をチベット人が「ゾクチェン」と呼び(外国人は「ゾクチェン・エリア」とかい う)、ゾクチェン寺出身のリンポチェがよくダルマネームの頭に「ゾクチェン」をつけることが多いなど、まったく知らなかった。
※この旅行記では、「ゾクチェン」と言う言葉を、この地域を表す言葉としても使用する。

それどころか、チベット本国で今もチベット仏教が修行されていることすら知らなかった。そしてそのチベット本国にあるチベット仏教の素晴らしい世界と自分が将来出会い、心が震え、弟子入りし、縁が広がっていくなど想像すらしなかった。

その当時の認識とその後理解した知識を列挙しよう。

1、当時;チベット本土では信仰が禁止されチベット仏教が残っていない
正; 確かに十数年そういう時代があったが、所詮歴史上「信仰の自由」を奪えたことはなく、チベット人やチベット僧侶は隠れて修行を実践し、文革が終わり、信仰 の自由が次第に認められるようになると、お寺を再建し、仏教大学を再建し、修行を始めた(もちろん政治的な主張は一切認められないという制約付)。また出 家が黙認されるようになると僧侶となるものが現れた。

2、当時;ほとんどの有力なリンポチェやラマは亡命した。
 正;亡命したリ ンポチェも多いが、残ったリンポチェも多い。その方々は山などで隠れて修行されていた方(ペンツェ・リンポチェやペマ・カルザン・リンポチェなど)や強制 収容所に収監された方がいた(アチュン・トクデン・リンポチェ、ぺナク・リンポチェ、ドゥクパ・リンポチェ、ケンポ・ムンセル・リンポチェ、ガルチェン・ リンポチェなど)。また強制収容所で師と出会い、類まれな境地を得たリンポチェもいる。
(アチュン・トクデン・リンポチェに学んだペナク・リンポ チェ、ケンポ・ムンセルに学んだガルチェン・リンポチェなど)。そして文革終了後、その長老世代の偉大なラマが若い世代に教えを直接伝授し、系譜が途切れ ることがなかった。またジグメ・プンツォ・リンポチェやアチュ・リンポチェなど著名なリンポチェもいた。

3、当時;ニンマの代表的なお寺は、 ミンドゥルリン寺 ドルジェ・ダク寺の2大寺院で、南派と北派と呼ばれている。
正;それはラサ地方の話であり、チベット全体ではニンマには六大寺院があり、ゾクチェン寺はその1つである。※他は、カトック寺 ペユル寺 シェチェン寺。

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そ の後縁あって、ゾクチェン・パトゥル・リンポチェに弟子入りし、妻のペマが2003年にパトゥル・リンポチェと共にゾクチェンに行った。そのときペマが持 ち帰ったゾクチェンの写真、そしてロシアのお弟子さんが編集したゾクチェンの動画。特に、パトゥル・リンポチェとケンポ・トプテン・ロドゥ・ニマの根本ラ マであるドゥクパ・リンポチェのお姿、手印の美しさ!心が惹き込まれ、打たれる。そして何よりもペマからの「ゾクチェンは聖地だった!自分は世界で一番美 しい場所だと思う。ドゥクパ・リンポチェを初めとして本当にすごい方々だった」という目を輝かしての感想。
さらには仲間のMさんが後年亡命チベット世界・チベット本国をバックパッカーとして旅をし、「一番よかったのはゾクチェンだった。そこは全てがそろっている。風景も、お寺も、素晴らしい僧侶も」という感想。

自分もいつか必ずゾクチェンに行きたい!と強く何年も願った。
ゾ クチェンの風景を見たい。建物を見たい(ゾクチェン寺、シュリ・シンハ、ペマ・タン)。そして何よりも偉大なラマたちに会いたい。特にパトゥル・リンポ チェの根本ラマであるドゥクパ・リンポチェには今生どうしても会い。そして長老トゥルク・ウェジェン・リンポチェ。若い世代では前シュリ・シンハ大学の大 学長で、パトゥル・リンポチェの金剛兄弟であるケンチェン・ウジェン・リンジン・リンポチェ、それからゾクチェン・リンポチェ、チョーリン・リンポチェと の再会。そして成就者として有名なアニ・ダサ、ラマ・カディー(以上全てゾクチェン寺のHPに紹介あり)にも会いたい。
そう願っていた。

それがとうとう自分の眼の前に広がっている。自分は今ゾクチェンにいる!
ゾ クチェン谷の構造は、両側を山に囲まれた細長い地域である。山から下りると湿原になっている。谷の中央に一本だけ土の道が縦断していて、その道の周辺だけ 硬い地面になっており、道に沿って建物が建っている。谷の奥は山で閉じられていて、出入り口は谷の外側にあるゾクチェン村からだけになっている。
入 り口に広がるゾクチェン村は、元々そこに村があったわけではなく、文化大革命のとき信仰が禁じられ、お寺が破壊された。ゾクチェン寺及び付属のシュリ・シ ンハ大学を追われた僧侶達が、僧侶生活をやめざるを得ないものの、聖地ゾクチェンから離れたくなくて、聖地の外に住みついてできた村である。
パトゥル・リンポチェによれば、だから村の老人などは元僧侶ですごい修行者がいるということだった。

そしてこのゾクチェン谷の中が聖地である。ロサル(旧暦の正月)の前のドゥプチェン(リトリート)のときは、唯一の出入り口である谷の入り口を締め切って、僧侶がゾクチェン寺に篭るそうだ。

谷には昔から主要な3つの建物がある。それはゾクチェン寺、シュリ・シンハ五明仏学院、ペマ・タン(リトリートセンター)である。
谷に入ってすぐ右手にあるのがゾクチェン寺、道の中間にあるのがシュリ・シンハ、そして谷の最奥部にあるのがペマ・タン。
その他にも小さな建物が点在する。
そこに今年上記の3つの建物に次ぐ2つの象徴的な建物が加わることになった。
その1つがゴンポ・リンポチェがゾクチェン寺のすぐ脇に立てられた曼荼羅型のゴンパ。
そ してシュリ・シンハより奥、ちょうどゾクチェン谷の中心付近に立てられたパトゥル・リンポチェのサンド・パァリ(グル・リンポチェの浄土)だ。ニンマのお 寺ではよくサンド・パァリ、ついで曼荼羅型の建物を立てるというのはよくある仕様だ。ただゾクチェンの場合、谷全体がゾクチェン寺の敷地のようなものだか ら、単に境内に立てられているというのと美しさが段違いだ。これでゾクチェン谷は聖地として完成かなとか考えてしまう。
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さて話を戻す。ゾクチェン寺を過ぎ、車が道を進んでいくとペマが言っていた「何の門かよくわからない門」が見える。シュリ・シンハの門ではないかと思うが確 かに何の門かよくわからない門だ。門をすぎてしばらくすると右手にシュリ・シンハ大学が見え、左手奥に屋根が金色に輝くお寺が見えてきた。完成予定図で見 ていたサンド・パァリだ。車がどんどんサンド・パァリに近づいていく。ペマが言っていた「金ピカだからすぐわかる」という言葉通り、太陽に屋根の金箔が光 輝いていた。サンド・パァリの横を通り過ぎ、奥のテント村に車が入った。テント村にはチベットには不釣り合いの白人が溢れていた。昨年の夏、ベルギーのポワセミナーで出会った法友の顔も多く見られる。
車を降りるとペマに多くの法友が挨拶にくる(ペマは友だちが多いから。信頼されているし)。
自分の身体をチェックする。頭痛もない、身体のだるさもない、頭も普段通り・・・幸い心配していた高山の影響は感じなかった。
何しろここは標高4100メートルで富士山の3700メートルより高地だから。
きちんと服用していたダイヤモックスのおかげか、日本での打ち合わせで、はなの子さんから教わった高山病予防の呼吸法を続けてきたおかげか。
またペマの説によると道中大雨だったので、空気がいつもより濃かったおかげかもしれない。
※結局幸いなことに日本から参加の13人+Kさんの台湾のお母さん共高山病になった人はいなかった。
 また世界中から集まった約130人の老若男女(幼稚園児から70過ぎの方まで)の弟子達の中にも幸い高山病になった方はセミナー中見かけはしなかった。

テントに荷物を降ろし、一息ついたあと、ペマとサンド・パァリに向かう。
近くから見上げると、その威容に、ますます感激した。新築で、屋根が金色に輝き、建物の壁も真新しい。タンカなどに描かれているサンド・パァリの宮殿そのものだと思った。サンド・パァリに向う途中、ペマからラマ・テンダを紹介された。
確かにペマが言っていたとおり、若いが非常に表情が柔らかい、品のある、境地を感じさせるお坊さんだった。
ラマ・テンダはパトゥル・リンポチェの弟のソガの妻の弟で、ゾクチェン寺の6人いるゲク(日直)の1人だ。
サンド・パァリのプロジェクトではリンポチェを助けた重要なメンバーだそうだ。

サンド・パァリの20段位の階段を登る。驚いたことに階段の途中で息切れがし、ようやく登りきったときには、階段にへたりこんでハーハーと息をせざるをえなかった。さすがうわさに違わぬ高地。安静にしていれば大丈夫でも、少しでも運動するとダメだと悟らされた。
ペマはさすがに高地に慣れていたのか息は切らしていなかった。3週間前からゾクチェンでセミナーの準備をしていたので。
赤 い柱に色とりどりの3D彫刻が施されていている。あとからペマから聞いたが、これはサンド・パァリの建築のためラマ・テンダらが開発した新しい技術で、ラ マ・テンダらが彫刻を彫り(完全なプロ技術)、それを型に取り、樹脂を流し込んで作ったそうだ。※確かにそのほかのゾクチェンの寺ではこのような立体彫刻 はなかった。
この技術が大人気で今、多くの注文が来ているそうだ。

弟子のテント村はサンド・パァリの南側である。南側から階段を登って、仏教徒らしく右回りに進んで北側の正門に回り、そこからサンド・パァリの中に入る。驚 いた。完成された外側に比べて中はまったくの工事中だ。仏像を設置中で、中には瓦礫が積み重なっている。2~3階にも(息を切らしながら、休みながら) 行ったがどの階も同じだった。このときが18日の昼位。明日の11時からブレッシングで、あさって20日の朝からオープンセレモニーだ。したがって明日の 朝には中の工事を終えていなければならない。とても中の工事は間にあいそうもなかった。また自分とペマにはもう1つの問題があった。サンド・パァリのオーディオ・システムが何も準備されていなかった。今日中に設置しなければならない。低地でも大変なのに、高山に慣れていない状況でやるのは、とても気が重くなる作業だ。ペマがゾクチェンから成都に戻っている間、オーディオ関係はアントニオに託していたが、アントニオは多くの仕事を抱えていたので、オーディオには手が回らなかったようだ。
テント村に戻りオーディオ関係のメンバーを探し、打ち合わせをし、手分けして作業を始めた。
まあ、このオーディオ関係の件はこの文書を読んでくださっている方にはさほど興味がないことでしょうから、それほど触れないようにします。1つだけ触れておもしろそうなことは、作業中不定期にサンド・パァリの天井で、電球が文字通り爆発した。
ペマによると蛍光灯電球が爆発しているとか。一応ゾクチェンには商業電気が来ているが、電流が全然安定しておらず、蛍光灯の電球は爆発してしまう。白熱電球 は暗くなるだけで大丈夫。そしてペマの呼びかけで日本の法友がLED電球を布施として持参したが、考えてみると日本では100V、中国は220Vでなおか つ安定しないので、基本的に使えない。ただし、2人の仲間が20個位持参したジェネレーター(エンジン発電機)でも壊れないLED電球だけは見事にサンド・パァリを照らし続けた。またセッティングの最中にトニー・ダフ(Tony Duff)がサンド・パァリにお参りに来た。トニー・ダフは世界的に有名なチベット語の英語翻訳者だ。ラマの資格を持って翻訳をし、最近はゾクチェンのテ キストも翻訳出版している(ルンがない者は開いてはいけないという注釈付きで)。彼の翻訳は修行を伴っているので、世界でもっとも信頼される翻訳者の1人 だ。パトゥル・リンポチェのロシア人の弟子アントンがその場にいて、アントンがトニー・ダフの元で1年間位チベット語を学んだことがあった。自分も日本でトニー・ダフの翻訳した本をペマが訳して内容を聞かせてもらっていた。
ペ マがアントンに頼んで夫婦でトニー・ダフに挨拶をすることができた。歳は50歳くらいか、長い髪を束ね、在家の紫と白の袈裟をつけていた。目が力強いが、 とても澄んでおられ、確かに修行者だと(僭越ながら)感じた。今ゾクチェンの奥にあるペマ・タンに滞在しているということだった。トニー・ダフの拠点はネ パールなので、まさかこんなところで会えるとは考えてもいかなった。ゾクチェンには多くの聖者がおられ、会いに行くこともできるが、この後もサンド・パァ リ自体が聖者を引き寄せもした。

・・・とくにかくオーディオ作業を始めて日が暮れる(21時過ぎ)まで行い、それでも作業が終わらなかったので、翌早朝から作業を再開することにした。
作業を終える時点、サンド・パァリの内部では、仏像の設置が終わり、瓦礫を片付けている最中であった。チベット人(特に女性)や白人の弟子達が電球のわずかな光の中で片付けを続けていた。
私がペマとともにテントで寝てる間もサンド・パァリでは作業の音が子守唄のように聞こえてきた。

 

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