ペマ・タン(6日目-1)

~ケンチェン・ジグメ・ヨンテン・ゴンポとペマ・カルザン・リンポチェ~

さて翌23日の話に移る。
朝起きると自分の体がいよいよ高山に慣れているのを感じた。ゾクチェンに来て6日目なので大丈夫になったのだろう。
他の日本グループのメンバーもだいぶ高地に慣れてきたので、昼から聖地巡礼をすることにした。協議の結果、昨日ゾクチェン谷の入り口にあるゾクチェン寺に行ったので、今日は反対側ゾクチェン谷の最奥部にあるペマ・タン(リトリートセンター)に行くことにした。
ただペマは「疲れているし、何度も行ったからいかない」ということだった。そしてペマから「ペマ・タン」に行くなら、「アチュン・トクデン・リンポチェのストゥーパとリトリートをした洞窟があるからそこも行ったらいい。ストゥーパは行き易い、洞窟はちょっと時間がかかるので、体調をみて行くか行かないか決めたらいい」と教わった。
「アチュン・トクデンの洞窟とストゥーパだって!?」
アチュン・トクデン・リンポチェは、2006年に日本に来日されたペナク・リンポチェ(カンサル・ダンビオンシュ)の根本ラマだ。ゾクチェンのラマたちは、トクデン・リンポチェを称して「一生のうちで仏陀の境地を得られた」とか「その成就は通常の成就ではなく、グル・リンポチェにも劣らない成就だ」と称える。アチュン・トクデン・リンポチェはシュリ・シンハ大学で、第27代大学長であったケンチェン・ジグメ・ヨンテン・ゴンポを根本ラマとして成就を得た。文革のとき20年間刑務所で重労働を強いられた。ペナク・リンポチェは同じ刑務所で16年間アチュン・トクデン・リンポチェから学び「アチュン・トクデンのもっとも優秀な弟子で師と変わらない成就を得た」と称されるまでの成就を得た。
文革が終わり解放されたあと、故郷のアチュンにお寺を建てたが、ペマ・カルザン・リンポチェの招きでシュリ・シンハでゾクチェンの伝授を専門とする師として招かれた。シュリ・シンハでは3年間教えを説かれた。そして2002年に遷化された。
ちなみにペマ・カルザン・リンポチェの親書を持ってアチュン・トクデンのお寺までシュリ・シンハ招聘に行ったメンバーの1人がケンポ・トプテン・ロドゥ・ニマだ。
私はアチュン・トクデンのお写真を見て「人間を超えている!」と感じた。またペナク・リンポチェに出会いその慈悲の光に涙を流し、しかもアチュン・トクデンの代表作『テクチューの教えナムカ・ティンダル(正式名称)』の解説を聞けたことで、その師の境地を確信した。そして、ゾクチェンやその他の多くのチベット本土のラマ達と同じく、アチュン・トクデンは仏陀の境地を得ていたと心から信じていた。だからペマ・タン以上にアチュン・トクデンの遺跡に行きたいと願った。

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アチュン・トクデン・リンポチェ
ケンチェン・ジグメ・ヨンテン・ゴンポ(第27代 シュリ・シンハ大学長)
ちなみに、ケンチェン・ジグメ・ヨンテン・ゴンポの根本ラマはケンポ・シェンガ(第19代大学長)⇒ウジェン・テンジン・ノルブ⇒初代ザ・パトゥル・リンポチェという系譜になる。
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昼食を済ませ、一息入れてから日本のグループでペマ・タンに向かって歩き出した。ペマ・タンへは片道40分ほどで、道は平坦だ。
た だ日差しが強く、高地のため、どんどん体力が奪われていくことがわかった。後からの経験も含めてまとめると、ゾクチェンの暑さは紫外線の暑さだ。高地にな ればなるほど気圧が低くなるが、逆に紫外線は強くなる。日差し自体は日本の夏にくらべて強いとは言いがたいが、ともかく眼に見えない紫外線が体を突き刺 す。だから日陰に入いるととたんに涼しくなる。日本だと日陰でも空気が温められているので、少ししか気温が下がらないが、ゾクチェンでは秋のように涼しく なった。したがって今後ゾクチェンなど高地に行く用事があったら日傘を持っていくことをお勧めします。あと紫外線防止のためのサングラスを。

ペマ・タンはリトリートセンターと訳され、ゾクチェン谷の主要な3つの建物の1つとして昔からあったものだ。
現在はペマ・カルザン・リンポチェが再建され、ペマ・カルザン・リンポチェが教えを説いたりするのに使われる。
ゾクチェンでは夏の間はいろいろなセミナーが開かれるがこの時期はペマ・カルザン・リンポチェが前行を終了した僧侶、在家の者に
「イェシェ・ラマ」の教えを伝授している最中だった。ゾクチェンでは夏の時期にこのように多くの教えが各所で伝授される。

サンド・パァリとペマ・タンの中間あたりにペマ・タンの門がある。門に書かれた文字を要約すると「ゾクチェン・ペマ・タン、ゾクパチェンポのリトリートセンターにようこそ」という内容だった。
Sさんによると、ペマ・カルザン・リンポチェはゾクチェンの信仰を守るため、中国政府に対して、ゾクチェン谷をチベット仏教の観光地化するというような説明をしているということだった。この看板もその一環のプロパガンダのように思える。またその観光地事業の一環もあって、シュリ・シンハ大学付属のゲストハウスを、谷のメイン道路を挟んで、大学の向いに建設したのではないかとSさんが言っていた。ゾクチェン谷の外から巡礼に来た人々、外国人でも1ベット当り1日40元(約600円)で自由に宿泊できるようになっている(ただし1部屋を押さえたいならその3倍位かかる)。まあ外国人から見ればけっして快適とは言えないが。今回のイベントではこのゲストハウスに泊まるか、サンド・パァリのテントに泊まるかだった。ただし、オープンセレモニーが終わったあとは、テント宿泊のものは、寝るときだけサンド・パァリの2階か、3階に寝る許可が出た。私達夫婦はサンド・パァリの2階で寝た。テントだと夏でも深夜はかなり冷え込んだ。しかしサンド・パァリでは暖かくてぐっすり寝られた。それだけでなく、サンド・パァリの中で、バターランプに照らし出された観世音菩薩に囲まれ寝るのは、実に幸せだった。もう1つゾクチェン谷の自然についてわかったことを書いておく。ゾクチェンでは土を掘っても、ミミズが出てこなかった。蚊もほとんど見かけないし、その他の昆虫もあまり見かけない。日本だと夏の風物詩になるセミやコオロギのような虫の鳴き声もほとんど聞こえない。ヤクのフンがあってもハエはほとんどたかっていない。ネズミも少ない。食べ物を放置してもくさらないので、細菌の類も少ないだろう。日本だと田舎では人間として生きていくこと自体で、多くの殺生を犯してしまう。道を歩くだけでも多くの昆虫や微生物を殺生せざるをえないが、おそらく、この4,100メートルのゾクチェンでは生活していても殺生のカルマを積むことがほとんどないであろう。

話を戻す。門を過ぎて歩いていくと、ペマ・タンがだんだん大きくなってきた。
ペマ・タンの1キロ位手前で、ファリネッリさんがペマ・タンの手前、ペマ・タンから見て右手側の山を少し登ったところにある何かの建造物を指差し、「あれは何ですか?」と聞いてきた。
そんなことを聞かれても、自分はペマ・タンに行ったことがないし、ペマから聞いたアチュン・トクデンの洞窟とも位置が違うような気がした。
「きっと何かの聖者を祭った建物じゃないの?」と推測で答えた。
ただ自分の興味はそれよりも、ペマ・タンから見て左手。今の自分達から見て右手奥に見える。赤いストゥーパの方に自分の興味は向かっていた。
ペマから聞いた位置、色で、間違いなく・・・「あれがアチュン・トクデン・リンポチェのストゥーパだと思う」と皆に言った。
ペマ・タンの巡礼のあと絶対に行きたいと思った。

紫外線と戦いながら、ようやくペマ・タンに辿りついたが、門が閉ざされていた。
「セミナー中なのか」「今日はダメなのか」
昨日ゾクチェン寺を追い出されただけに悲観的になった。ともかく門の辺りが日陰で涼しかったので、とりあえず皆休むことにした。
門の前は非常に広い駐車場になっている。ゾクチェン寺やシュリ・シンハと違い、ここは駐車場が完備されている。
そしてその駐車場によく見るとアショーカ王の石柱を模した石柱が立っている。日本のお寺だとあくまで日本仕様で、アショーカ王の石柱をあまり立てたりはしない。そこは文化の違いだろう。
また門の前、左右には黄金色の飾りがついた象の石像が並んでいる。ちょっと中国っぽく日本人の美意識にはそぐわない。
ただ驚いたことに中国人の家族が観光に来ていて、その黄金で飾られた象をバックに皆で写真を撮っていた。
皆で「日本人ならまずこの象を背景に写真を撮らないよね~」と言い合った。どうやら中国人にはこの象はウケルようだ。
また象の横には布袋さんのような石像があった。お金も持っていた。しかしKさんによるとこれは中国風の弥勒(マイトレーヤ)だそうだ。中国では弥勒は財神(布袋)と結びつけられて信仰をされ、しかもすごく人気のある本尊だそうだ。
 

他にもペマ・タンの周りには布施をした証を刻印した灯篭や壁が並んでいるんだが、中国名が並んでいる。
実はペマ・カルザン・リンポチェの著作『生死的幻覚』が中国でベストセラーになったこともあり、中国人のお弟子さんがリンポチェには沢山いる。そして中国人は仏教で功徳を積んで「お金持ちになる」ことを祈願し、実際お金持ちになると、ドン!と巨額のお布施をするそうだ。

さて体力が回復したので、ペマ・タンをコルラすることにした(チベットのお寺はどこでもコルラできるように通路が必ずある)。
ペ マ・タンの正門がある北側から東側に向かうと、ペマ・タンのコルラ用の通路を挟んで僧房が並んでいた。僧侶も2人くつろいで座っていた。日本のチベット通 訳のパドメさんがお坊さんに近づき、何事か話しているかと思うと、お坊さんの1人がパドメさんと一緒に日本の一行のところに来た。「ペマ・タンの鍵を開け てくれるかどうか交渉してくれるって」とパドメさん。
皆、「えー!」と歓喜した。自分も含め多くの日本人が中に入るのは諦めていたろう。
パ ドメさんがいうには「ペマ・タンをお参り(ネコル)をしたいと言った。チベット人の風習としてお参りは断われないというのがあるの!」とのこと。また「お 坊さんの方からサンド・パァリに来たのか」と言われたそうだ。ゾクチェンではサンド・パァリに集まった外人たちのことが相当噂の的になっているようだっ た。チベット人の口コミは日本以上だそうなので。

さてお坊さんは日本人一行とともに右回りにコルラした。ペマ・タンの南側に行くと道を挟んで、ちょっと大きめのちょっと豪華な邸宅があった。これがペマ・カルザン・リンポチェの家とお坊さんが教えてくれた。
座主を甥にあたるゾクチェン・リンポチェに譲り、隠居状態とはいえ、実質的にゾクチェン寺及びゾクチェン谷の最大の実権者であるのに比し、この家は大きくないし、そんなに華美でもなかった。
外門に色とりどりのたくさんのカタが結び付けられている。信者が結びつけていったものだろう。
これだけでペマ・カルザン・リンポチェがいかにゾクチェンで尊敬されているかわかる。

キャブジェ・ペマ・カルザン・リンポチェはゾクチェンのまさに守り神だ。ゾクチェン・リンポチェ6世が文化大革命のとき遷化されてから、2003年にゾクチェ ン・リンポチェに座主を譲るまで、約40年にわたって、ゾクチェン寺の座主を務められた。ご年齢からすると20歳前後で座主になられたと思われる。
「キャブジェ」の称号は中国語では「法王」と訳されるが、ゾクチェンで「法王」と呼ばれるのはペマ・カルザン・リンポチェのみだ。座主になられたときはまさに文 化大革命のただ中であり、リンポチェはゾクチェン寺に歴代伝わる貴重な宝物と共に、身を潜めておられた。文化大革命が終わり、じょじょに信仰の自由が復活 し始めると、ゾクチェン寺の再建、シュリ・シンハ仏教大学の再建とじょじょに進めていった。相当に信仰の自由が復活したころには、パトゥル・リンポチェの 根本ラマのお一人でもあられるペンツェ・リンポチェを始め、高僧を招いて高度な仏教教育を行った。現在、ゾクチェンは「チベットの心」とも呼ばれ、チベッ ト本土の中でも相当に信仰の自由が守られているが、それはペマ・カルザン・リンポチェのお力と言っても過言ではない。
そして現在はこのご自宅で何年もリトリート(篭り行)を続けておられる。
なお、ゾクチェンセンターで唱えているパトゥル・リンポチェの長寿祈願文を書いてくださっているのが、ペマ・カルザン・リンポチェである。また、パトゥル・リンポチェにサンド・パァリ寺を建立するように指示を出されたのもペマ・カルザン・リンポチェである。
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キャプジェ・ペマ・カルザン・リンポチェ ( ペマ・ベンザ三世 )
お、「カルザン」はラサ読みでは「ケルサン」
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そしてペマ・タンをコルラし、東側に来て、北側に近づくと、通路を挟んで、建物が何棟か並んでいた。お坊さんはそのうちの1つに入った。そして出てくると私たちに笑顔でOKサインを出してくれた。皆「ワー。ヤッター!」と歓声を上げた。

お坊さんがペマ・タンの門をたたくと、トランシーバーを片手に持ったお坊さんが門を開けてくれた。
交渉してくれたお坊さんに先導されて、ペマ・タンの中に入る。
驚いたことに自分が今までペマ・タンの外塀かと思っていたのが、実は、塀はなく、ペマ・タンの建物そのものだった。つまりペマ・タンには庭がなく、大きな1つの建物になっている。したがって、門と思っていたのは、門ではなく正確にはドア、建物の扉だった。
広い空間だった。しかも一見して豪華だった。誰もいなかった。
お 坊さんが早足でどんどん中に入って行き、中にあるもう1つのドアに向かった。自分としてはいつ追い出されるかわからないので、とにかくお坊さんについて 行って、深部に入れるときに入ろうと思った。あのドアをあけるとペマ・カルザン・リンポチェがイシェ・ラマの教えを説いている最中かもしれないと思った。 私と同じように考えていたのがファリネッリさんも早足で、2人がお坊さんのすぐ後ろについていた。
お坊さんがドアを開けると、誰もいなかった。そしてそこはさらに豪華な部屋であった。柱も床も、壁も造りがしっかりしていた。
そしてお金がいったい幾らかかったのかと思う位に豪華だった。柱には基本的に飾りのついた布に上から下まで包まれていた。
ペ マ・タンは結局ゾクチェンではもっとも豪華な建物である。客観的に評価してゾクチェンで2番目に内装が綺麗なのはサンド・パァリだ(外装は私見ではサン ド・パァリが一番)。ただ近づいてみると階段がコンクリートの打ちっぱなしだったり、柱に貼った飾りが早くも取れたりとどこか安普請なのだが(※パトゥル・リンポチェ!すみません!)、ペマ・タンはそのような隙が一切なく、隅々までしっかりし、隅々までお金がかかっていそうだった。ただ、全体的な雰囲気 は確かにチベット風で上品な装飾なのだが、どこか中国テイストが含まれている飾りだった。このペマ・タンはペマ・カルザン・リンポチェが中国のお弟子さん の資本を集めて造ったものなので、その影響があるかと思う。それに比べてサンド・パァリは内装も外装も完全にチベット風であり、中国テイストは一切なかっ た。※ちなみに現在のゾクチェン寺は、ペマ・カルザン・リンポチェが交通事故で瀕死状態になり、多額の保険金をもらえたので、その保険金で再建したとゾクチェン寺にある碑に書いてあった。
部屋の奥には、釈尊の少年の姿を模した金色の仏像がある。お坊さんの説明ではこれはラサのジョカン寺にあるジョオ・リンポチェと対になるもので、自ずから生じた仏像だった。実際ジョオ・リンポチェと瓜二つだと説明してくれた。

こ れは妻のペマが前回ゾクチェンに行ったときにも同じ説明を受けていて、そのあとパトゥル・リンポチェと一緒にラサで実際のジョオ・リンポチェを見たがペマ の感想では「ラサのに比べて繊細さが足りないような」と言っていた。確かに写真でしか見たことはないが自分もラサのジョオ・リンポチェには似てなるような 似てないような・・・ともかくゾクチェンの人々がそのように信じている像がある。その両側に大きな写真が飾ってある。よく見知っているゾクチェン六世とケ ンチェン・ジグメ・ヨンテン・ゴンポだ。位置から考えてお坊さんに写真を示して「ペマ・カルザン・リンポチェ ツァエーラマ(根本ラマ)?」と片言のチ ベット語で聞くと「そうだ」と答えてくれた。つまりペマ・カルザン・リンポチェはアチュン・トクデンの兄弟弟子だということを初めて知った。また写真の 隣、向って左端にあるストゥーパはゾクチェン・リンポチェ六世のものということだ。両側の壁にはドゥグナル・ランドルとか、リンジン・ドゥパ、ペマ・ベン ザ等々の絵が描かれていて、そういうことをお坊さんと話題にしながらお参りをした。
お坊さんにイェシェ・ラマのセミナーのことを聞くと今日は昨日までやっていた前半が終わり、ちょうど中休みの日だったそうだ。日本チームは非常に運が良かったことが判明した。

一通り堪能したので「そろそろ潮時」と察し、奥の部屋を出た。今度は手前の部屋をゆっくりと歩きながらも吟味しながら戻った。この部屋は奥の部屋より広く、奥の部屋ほどではないが、同じように豪華だった。
玄関の近くには事務室があり、そこでお坊さんが電気が安定していないゾクチェンでは見慣れない光景で、パソコンをいじって事務をしていた。
あ とでペマから聞いた話では、電気のことでパトゥル・リンポチェはペマ・カルザン・リンポチェに相談し、日本のTAIYOというメーカーのジェネレータを勧 められ、それをサンド・パァリのオーディオシステム専用の発電機として使用していた(イベントの最後まで安定した電流を供給し続けた)。
またもう1つペマから後で聞いたことは、ペマ・タンの手前の部屋は元は庭で、最初は奥の部屋だけがペマ・タンの建物だった。しかしペマ・カルザン・リンポチェの教えの伝授を希望する弟子が増えたため、庭を潰して部屋を増設したということだった。


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