ウジェン・リンポチェ(7日目-2)

~長老~

さて、ドゥクパ・リンポチェの家を離れ、皆サンド・パァリに向けて帰っていった。その通り道、ドゥクパ・リンポチェの家の近くに大きい邸宅があった。門は閉じられていたが、家のドアは開いていた。
「あれはどなたの家?」パドメさんがなぜか唐突に言った。
「どなたかのリンポチェの家でしょう」とペマ。
「誰だろうね」
「門のところに何か文字が書いてあるから、読んだら?」と私。
自分とペマとパドメさんと何人かが門に近づいた。
まずインターフォンの下に書いてあるチベット文字をパドメさんが読んだ。「ええっと・・・夜中に御用がある方はこのインターフォンを鳴らしてください・・・関係ないじゃん!」*注 自分も含め、何人かが笑い声を上げた。

ポストの下にあるチベット文字をペマが読んだ「トゥルク・ウジェン・リンポチェだ!長老の」「あの耳の大きいリンポチェ?」と私。
「そう」
「あっわかった。耳の大きなって、あのゾクチェン寺のホームページに出てたリンポチェね」とシュリちゃん。
「入って挨拶しようか?」と台湾のKさん。
「アポを事前に取るべきじゃない?」
「でも自分はあさって帰るから今を逃すと会うのは難しい」と私。
「でも失礼じゃない?」
意見がまとまらず多数決で決めることにした。
挙手の結果、今日は帰って、改めてアポを取ることに決まり、日本グループは帰り始めた。もう世界の法友達はこのあたりを去ってしまっていた。

ところが後ろで、Kさんがたまたま道を通りかかった一般のチベット人と話し始めた。
そしてそのチベット人がうなづいて、ウジェン・リンポチェの門に入り、家の中へと入っていった。
日本グループは立ち止まり、その様子を見ていた。
しばらくすると家の中から先ほどのチベット人が出てきて、笑顔で腕を振って中に入れというジェスチャーをした。またドアのところにアテンダントのラマが出てきた。
日本グループは「ええ!!」と歓声を上げた。早足で引き返し、Kさんに続いて、家の中に入っていった。
玄関で靴を脱ぎ、廊下にあがる。そのすぐ右手の部屋のソファに、ご高齢のラマが座っているのが見えた。耳が大きい。トゥルク・ウジェン・リンポチェだ!
アテンダントに手招きされて部屋に入った。皆三拝を始めた。
トゥルク・ウジェン・リンポチェはドゥクパ・リンポチェと並んで長老と考えられ、ゾクチェンで尊敬されているリンポチェだ。
ドゥクパ・リンポチェと同じく、ゾクチェン寺で僧侶を指導してきた。ケンポ・トプテン・ロドゥ・ニマが初めて来日された際、リンジン・ドゥパのルンを行ったが、そのとき「私はトゥルク・ウジェン・リンポチェから2回ルンを授かった」と説明されたこともある。
パトゥル・リンポチェの父親(在家)の根本ラマでもあり、このお父さんの部屋に行くとウジェン・リンポチェの大きな写真が飾ってある。
今は日本グループしかいないので、皆、かぶり付きだ。

****************

*注;「夜中に御用がある方はインターフォンを鳴らして・・・・」この言葉の意味を後日、パトゥル・リンポチェに聞いてあまりに感動した。

ゾクチェン村の村民にとっては、トゥルク・ウジェン・リンポチェこそ、「グル・リンポチェ」そのものであった(パトゥル・リンポチェのお父さんの根本ラマでもある)。ゾクチェン寺のご高齢の僧らにとって、ゾクチェンの冬はあまりに過酷で冬の間は成都やシンセンなどの暖かい場所で過ごされることが多い。その中でウジェン・リンポチェはけっしてゾクチェンを離れることなく。そして人々のどんな要望にも、応えた。以前は請われればどんな季節でも、どんな天気でも、どんな時間でも出掛け、請われるがままに加持をし、供養をした。しかしご高齢になられて、さすがに出掛けることは少なくなったが、自宅にはいつでも受け入れた。「夜中に御用がある方はインターフォンを鳴らして」とは、逆に夜中でなければ、自由に家に入ってくださいといいうことであった。村人は加持を、供養を、占いを、あるいは些細な相談ごとまで何かあるとウジェン・リンポチェの自宅に訪れ、お願いをした。その中にあって、ウジェン・リンポチェは毎日3時~4時に起き、修行をされる生活を続けられた。

2011年の春にこのウジェン・リンポチェが亡くなられた。このとき、ゾクチェン村では、深く嘆き悲しみ、悲しみに包まれた。ゾクチェン村の人にとって、ウジェン・リンポチェは何者にも代えがたい存在だったことだろう。

1 人1人カタを捧げ、ウジェン・リンポチェがご自身のマニ車で頭頂に当てたまま、「ジャンジュ(ラサだとチャンチュップ)・セムチョー・リンポチェ・・・」 と『発菩提心の発展』を一度唱えてくださり、加持をしてくださった。ドゥクパ・リンポチェのときは人数が多かったので、ペチャで「ポン」だったが、今回は マントラを一回づつ唱えてもらうお時間、加持をいただくことができた。
ウジェン・リンポチェも見るからにすごい境地を達成したラマであった。現在のチベット仏教界広しといえど、これだけの境地を達成した師にはそう出会うことはできないだろう。
ドゥクパ・リンポチェと同じく長老と称されることに心から納得がいった。心が温かくなるようなやわらか~いヴァイブレーションだった。
日本の皆もリンポチェに会えて心から幸せそうだった。ペマも初めてまぢかでお会いし、感動していた。

ウジェン・リンポチェのご自宅をあとにし、今度こそサンド・パァリに向かった。
ご 自宅の隣には大きな建物があった。中から大勢の子供達の声が聞こえた。ペマによるとトゥルク・ウジェン・リンポチェが経営する学校だそうだ。ここにゾク チェン村から子供達が通ってくるそうだ。仏教教育ももちろん尊いが、このように子供達を教育する学校を作られるのはとても大切な救度のように思えた。リン ポチェの暖かいお人柄を顕す活動のように自分には思えた。
皆がKさんに感謝の言葉を言った。「本当によかった」「ありがとう」
ドゥクパ・リンポチェだけでなく、トゥルク・ウジェン・リンポチェまでに会え、本当に祝福の嵐だった。
道すがら、この日の昼食後の予定を話し合った。私とあと2人があさって朝にゾクチェンを発たなければならなかった。残すゾクチェン谷での主な建物はシュリ・シンハだけであった。
結局、昨日ペマ・タン、今日は朝からゾクチェン寺まで歩いたので、今日は休み、明日シュリ・シンハに行くことにした。

さて朝のパトゥル・リンポチェの中論の法話が終わり、昼食を終えたころにニュースが口コミで入ってきた。ご高齢のアニ(尼)がサンド・パァリに来ていて、教 えを説くらしい。パトゥル・リンポチェも「良かったら聞きなさい」と言ってるということ。「アニか」自分としてはさほど興味がわかなかった。疲れていた し、もう今日はドゥクパ・リンポチェの慈悲の光で満たされていたし、所詮アニだし(反省!女性の皆様申し訳ありません!)。
自分は前からやらなければならないと思っていたテントからサンド・パァリの寝床への荷物の移動をしようと思った。自分が帰ったあと、ペマに重い荷物を運ばせるのは夫としてできない相談だった。明日はシュリ・シンハに行くので、今やらないといけないと思ったからだ。

それで重い荷物をテントから抱えて、サンド・パァリの階段をあがった。重い荷物を運ぶと高地のため、今でも、きつく、10段、半分位のところで休んだ。する と上から降りてきていたチベット人のおばあちゃんが見かねて、荷物を軽々と運んでくれた。「トジェチェ」と言いながら、もう情けないやら、まあこれが高地 というものかと思った。
そこから鞄を転がしてサンド・パァリを半周回り、正面から1階にとりあえず荷物を運んだ。ペマがいたので、その傍に荷物を降ろして休んだ。
するとパドメさんが2階から降りてきて、私を見かけると、「上にアニがいるよ。教えを説くらしいから行こう」と誘われた。あまり乗り気ではなかった。しかしペマが行くというので、しかたなく付き合うことにした。
2 階には、30人位の世界の法友が集まっていた。Kさんのほか、何人かの日本グループのメンバーもいた。フロアの真ん中あたりご高齢のアニと両側にラマ・ト プガ(パトゥル・リンポチェの兄)ともう1人のラマ(おそらくアテンダント)が祭壇に向かって(つまり聴取に背を向けて)座っていた。ペマが「アニ・ダサだ!」と言った。驚いた。「ええ!」『だったら早く言えよ!会いに来ていたのに!』に思った。
アニ・ダサが素晴らしいということは前からペマに聞いていて、私どもが開設したゾクチェン寺のホームページにも載せていた。

アニ・ダサは、基本的にはゾクチェンがある東カム最大の町であるダルツェンドゥ(中国名カンディン)に住まわれて治療に従事されている。夏の間はよくペマ・タン に滞在される。ジグメ・リンパの身の化身とされるドゥ・ケンツェの妻のトゥルクとして認定されている。 優れたダーキニーとして有名でパトゥル・リンポチェも彼女のところで、半年間医学を学んだ。パトゥル・リンポチェによると、彼女はよく、真夜中でヴィジョンの中で、高度なゾクチェンの教えを授かり、紙に記しているけれど、朝になると、あまりにも、高度と思って、夜に書いたものを燃やしているらしい。-------------アニ・ダサ
-------------
自分としてはこの旅行記の最初にも書いたとおり、アニ・ダサは会えるならぜひ会いたいと思っていた方だった。ペマも「会おうと思ってもアニ・ダサには会えない。本当に運がいい」と言った。
合掌しながら、回り込んでアニ・ダサのお顔を拝顔した。衝撃が走った。なんとものすごい表情なんだ!と思った。ご高齢(83歳)だが、ドゥクパ・リンポチェやウジェン・リンポチェと同じように見る者に、問答無用の圧倒的な境地を感じさせずにはおかなかった。

思わず五体投地をせざるを得なかった。本当にドゥクパ・リンポチェ、ウジェン・リンポチェ、このアニ・ダサを見ると儀礼ではなく、心から三拝をしたくなり、三拝をすると心が喜びに包まれた。
私 は急いで、1階におり、日本グループが使っている2重通訳セット(マイク・アンプ・ヘッドフォン(2階にいる人数分))を抱え、休みなく階段を登り、2階 に戻った。息が激しく切れた。柱を背にして倒れこんだ。パドメさんがいるし、アニ・ダサが説法を始めたら通訳してもらうつもりだった。
息が整うと合掌しながらアニ・ダサの前に回りこみ、お姿に見とれた。アニは何かを唱え、祭壇の観音菩薩の像に米をまいていた。加持をしていた。
そして両脇を支えられながら、立ち上がり、3階の階段に向かった。私はビデオを持って後ろについていった。
3階でも阿弥陀如来の像の前に座った。しばらくすると米をまいて加持をされ、また両脇を支えながら出ていった。
結局、説法はされず、そのまま2階、1階へと進み、しばらく1階で座って休まれたあと、出て行かれた。
残念ながら、今回は説法ではなく、加持を目的とされていたようだ。
さすがサンド・パァリ。聖者を引き寄せる。

アニ・ダサが立ち去ったあと、パドメさんに心からお礼を言った。
それにしてもゾクチェンに来てからツイている。昨日は、行きたくないと言い張った洞窟に行くとそこがアチュン・トクデンの洞窟そのものであり、今日は会ってどうするのと思っていたアニに会いに行ったら、会いたかったアニ・ダサだった。

さて、明日は、自分にとって最後のゾクチェンの日だ。
当初の予定では、明日はゾクチェン・リンポチェが来られて灌頂をしてくださることになっていた。
そしてあさってはケンチェン・ウジェン・リンジン・リンポチェが法話をしてくだることになっていたが、あさっての早朝にはゾクチェンを発つことになっていた。
自分は日本で、ゾクチェン・リンポチェの教えを受けていたので、正直、どちらかを比べるならケンチェン・ウジェン・リンジン・リンポチェのケンチェン(大いなるケンポ)の法話を聞きたかった。しかし残念ながら今回は、縁が生じないようだった。それが心残りだ。

夜のパトゥル・リンポチェの説法のときに、その明日についての重要な発表があった。リンポチェによるとゾクチェン・リンポチェから突然電話があり、明日の予定をあさってにしてほしいと言われ、ウジェン・リンジンが明日来ることになったということだった。
またもやの奇跡にびっくりすると共に、心からうれしかった。あさって一緒に帰る2人もその知らせに喜んでいた。


  1 2 3 4 5 6 7 8 Page 9 10 11  Next page>