シュリ・シンハ五明仏学院(8日目-2)

~最後の聖地巡礼~

法話が終わると、打ち合わせ通り、食事を取らず、日本グループの皆でシュリ・シンハに向かった。今の14人のメンバーが揃う最後の聖地巡礼だ。
シュリ・シンハはサンド・パァリから一番近い。歩いて10分位だ。その道中で、今日の昼間にペマ・タンに行ったこんこんさん、ファリネッリさんが興奮していた。
アチュン・トクデンの洞窟ももちろんよかったが、ペマ・タンの錠をあけてもらおうと僧房に入ると一見して成就者とわかるご高齢のすごいラマが座っていたそうだ。
「まるでドゥクパ・リンポチェのような雰囲気だった!」とこんこんさん。
その話を聞いて私は驚いた。ゾクチェンとはなんてすごいんだろう。ドゥクパ・リンポチェにも見まがう境地のラマがそこらに潜んでいるなんて。

ファリネッリさんがデジタルカメラの液晶で、写真を見せてくれた。
それは一見してアニ・ダサだったし、よく見てもラマではなく、アニ(尼)のアニ・ダサだった。
ペマもこれはアニ・ダサだと断言した。
「女性だったんだ」とこんこんさんが驚いた。まあ、完全に女性・男性を超えた存在だし。
まあ、そうでしょう・・・いくら聖地ゾクチェンでもドゥクパ・リンポチェやアニ・ダサのような存在はそうそういるはずもない。

それにしても、アニ・ダサにサンド・パァリで会えなかったこんこんさんやファリネッリさんが、偶然にもペマ・タンでアニ・ダサに会えたことは本当に吉祥なことだ。
日本チームは何かの加持に守られているようだ。

「入菩薩行論の花はどれ?」私がペマに聞いた。
入菩薩行論の花は黄色い花と聞いていたが、黄色い花はゾクチェンには何種類も咲いていて、未だに特定できなかった。
第5代、シュリ・シンハ大学長でもあった初代パトゥル・リンポチェは毎年夏になるとシュリ・シンハにやってきて、入菩薩行論の講義を行った。すると・・・以下、春秋社 『ダライ・ラマのゾクチェン入門』の43ページ・・・

「パトゥル・リンポチェが『入菩薩行論』を説くと(シュリ・シンハの)周囲に変わった花が咲いたといわれています。それは後に〈入菩薩行論の花〉と呼ばれるようになりました・・・」
といわれる入菩薩行論の花で、ゾクチェン全体に咲いているらしいが、今から行くシュリ・シンハの周辺に咲くものこそ、本場の本物の入菩薩行論の花そのものだ。メイン道路からシュリ・シンハに向かう草むらで「これだよ」とペマが指差してくれた。
ペマの解説によるとこの花は〈セルチェン〉という花だが、普通は5枚の花びらだ。このゾクチェンではそれが変化し、時には100以上の花びらになる。一応6枚以上なら入菩薩行論の花と呼ばれるとのことだった。
ま ずはペマの勧めで、シュリ・シンハの向かって左手にあるパトゥル・リンポチェの洞窟に行くことにした。シュリ・シンハを取り囲む壁があったが、近づいてみ るとそれは僧房となっており、2階建てで小さい部屋に区切られている。窓から僧侶達がお経を読んだり、くつろいだりしている姿が見えた。個人部屋になって いるようだ。その僧房の横の斜面に洞窟があった。表示は何もされていない。日本の観光地と違い、ゾクチェンでは史跡に何かの表示をされているということはなく、全部口コミで知識を得るしかない。この洞窟は、ゾクチェンに全部で3つあるパトゥル・リンポチェの洞窟の中で、もっとも行き易いものだ。シュリ・シンハで教えを説くときにパトゥル・リンポチェが居住した場所だ。
私達のラマであるパトゥル・リンポチェ4世も、母親が亡くなられたあと、ここで1年間リトリートをされた。

入り口は1人が通れるくらいで、中も3畳ほどの狭い空間だった。この洞窟は誰も管理していないらしく、ペマ・カルザン・リンポチェを初めとする現在のゾクチェンの有力なマスターやその他の地域の有名なラマの写真が統一性がなく飾られていた。
交代交代で中に入り、交代交代で洞窟の前で記念写真を撮った。

この洞窟があるところの奥は坂になっていて、シュリ・シンハから山まで坂が続いていた。その坂から1人のラマが私達に声を掛けてきた。Kさんが通訳するには、この坂の上にも良い場所があるので行くか?ということだった。
ペマが言うにはそこは歩いて40分かかるという。それでお礼を言いつつ、断った。その代わり、シュリ・シンハを案内してくださるようにお願いしたところ、快諾してくださった。
Kさんの話ではこのラマは漢族の方で、今シュリ・シンハ付属のゲスト・ハウスにいてペマ・タンで『ラマ・イェシェの教え』を受けている。同じくゲストハウスに泊まっていたKさんとも親しくされていた。
洞窟から一番近い壁に空いている門をくぐった。そのとき建築会社を経営しているこんこんさんがシュリ・シンハの塗装を見て、「こんなのじゃ、日本じゃ塗り直しになる」と言った。
言われてみるとシュリ・シンハの赤い塗装は濃淡があって、近くでみると綺麗とはいえなかった。
ペマが「でもゾクチェンでは紫外線が強いので、すぐに塗装がダメになるらしいよ」とのこと。
私が「だったらこんこんさんゾクチェンで建築会社を作ったら、日本品質で信頼されるかもしれない」
「個人的にはそれでもいいけどね~。家族がいるから」
これらの話をしていて、私としては今、ピカピカしているサンド・パァリ、パトゥル・リンポチェが10年かけて作ったサンド・パァリも何年かすると紫外線で煤けてくるのかなと、その無常さにやるせない気持ちになった・・・

門をくぐると中庭があって敷地の真ん中に建物がたっていた。これがシュリ・シンハ五明仏学院の校舎だ。ゾクチェン寺やペマ・タンに比べればずっと小さい。サンド・パァリと同じ位だ。ドアを引っ張るが、錠がかかっている。ラマが「入れない」と言った。
ペマが「ごめんなさい」と言った。
私が「何とかあけてもらえないの?」
「無理だって」とKさん。
ラマがシュリ・シンハの中にはこんなものがあると説明を始めてくれた。親切心だったのだろうが、自分としては「だから入りたいんだ!」という気持ちが余計に強くなった。
ラマも日本のメンバーの中にも、諦めて校舎から離れていく人が出始めた。でも私とあと2人は明日朝帰るんだ!シュリ・シンハに入らないと満願成就にならない!
「嫌だ。なんとか中に入ろうよ!」と私は強く言った。その言葉の背景には、この日本チームは、まるでドリームチーム。これまで皆の力が合わさって奇跡的な『聖地巡礼』を果たしてきた、何かの加持があるという思いがあった。
もう一度Kさんとラマが門に近づいて何か試していたが、

「ダメだって、鍵がないと。でもこのお坊さんはどこに行けば鍵があるのかわからないって。誰か鍵を持っている僧侶が来ないと」
このとき8時30頃で、ゾクチェンは夕方で薄暗かった。シュリ・シンハは僧侶がすでに建物の中に引っ込んでいて、庭には誰もいない。もう眠りに入りかけている時間だ。もうダメなのか。自分もいよいよあきらめの気持ちになりかけた。
「あっ!あれは!?」誰かが指差した。指差すほうに1人の若いお坊さんが何かを抱えて、こちらに向かってくるのが見えた。そのお坊さんは校舎に近づいてきた。Kさんとラマがお坊さんに近づいた。
「鍵を持っているって!」Kさんが叫んだ。Kさんが事情を説明した、日本から来て、明日帰るメンバーもいるとか言っているようだった。
その若いお坊さんが手招きしてくれた。お坊さんは座布団を何枚か、校舎に戻そうと鍵を借りてこちらに来たそうだ。
「ワー!」皆が歓声を上げた。
私は思った『う~ん、鍵を持っている僧侶が来ないと、と言ったとたん鍵を持った僧侶が歩いてくるなんて!?この日本のメンバーはやはり最強のドリームチームだ!』
シュリ・シンハ大学の中に入った。

入ってすぐ、もちろん、何はともあれ、五体投地をした。電気がなかったから薄暗かったが、十分に見えたような気がした。いや、多少見え辛くても満足だ!
年 代モノの玉座が正面にあった。これは歴代の大学長が座ったものだ。大学は再興されたものだが、この玉座の古さからみて、おそらくは少なくても生ける仏陀と 言われた元大学長ペンツェ・リンポチェ(パトゥル・リンポチェの根本ラマ)などは座ったんじゃないか?そうでなくても多くの大学長、ケンポ、リンポチェが ここで教えを説かれたろう、そう思うと自分は思わず玉座の前にひざま付づいて、土下座のような恰好で、玉座の下部に額を当てた。他のメンバーも同じように した方もいた。
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ペンツェ・リンポチェ  
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それから玉座の後ろの祭壇のほうにまわり、いろいろ仏像などをみていった。若いお坊さんがいろいろ説明してくださった。
シュリ・シンハを見ると基本は吹き抜けだが、2階からも玉座の先生を見ることができるようになっている。
学 校というので、日本のようにカリキュラムを組んで同時に何クラスも開くのかというイメージがあったが、構造的に1講義しかできない。ゾクチェン寺もペマ・ タンも同じような構造になっている。一人の偉大なラマが話して、皆が同時に聴講する。どうもそれがチベット人の基本的な思考法のようだ(と私説を持っ た)。
シュリ・シンハの内部もゾクチェン寺やその他のゾクチェン谷の建物と同じく、柱が多く、その柱が赤く塗られ、装飾が施されている。天井にも仏教的な絵が描かれている。非常にチベット風だが、装飾はゾクチェン寺に比べても少なめで、実用的な勉学の場という印象を受けた。

さて、そろそろ潮時。元々若い僧侶も座布団を置きにきただけで、その用事はすぐに終えていた。長居は迷惑だろう。
私達はお坊さんにお礼をいい、校舎を出た。僧侶と別れたあと、一回だけ校舎をコルラすることにした。
校舎は四方を僧房兼壁に囲まれ、比較的広い面積を取った中庭がその四方の内側にあって、真ん中に校舎があった。
ただ、中庭には結構建築資材やごみがそのまま残されていて、日本人的には「もっと片付けたらいいのにね」と感じてしまった。
コ ルラを終えたあと、シュリ・シンハの正門を潜り、外に出た。谷のメイン道路に向かった。明日の未明に旅立つ3人は皆に別れの挨拶をし、残るメンバーも私達 を祝福してくれた。シュリ・シンハ付属のゲストハウスに宿泊しているメンバーとサンド・パァリに宿泊しているメンバーに分かれて歩きだした。

2004年にペマがゾクチェンから戻ってきたときの言葉を思い出した『ゾクチェンは私がこれまで見た中で、最も美しい場所であり、仏の浄土であり、聖地だった』
今 自分は心からその言葉に同意していた。ゾクチェンは谷なので、見渡してもその聖地しか目に入らない。それでますますその感が強くなるのだろう。もうすっか り太陽が沈んでしまった。しかし目の前のサンド・パァリは、他のゾクチェン谷の建物と異なり、パトゥル・リンポチェの趣味で、四方からスポットライトを当 てられている(すでにゾクチェンのチベット人の間で、美しいと評判になっているそうだ)。サンド・パァリ、それはグル・リンポチェの浄土。ゾクチェンの静 寂の中で、金色のサンド・パァリだけがライトに照らされて淡く浮かびあがっていた。
(終)


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