ゾクチェン寺(5日目)

~ニンティク・ヤプシ~

翌22日から通常のパターンで日程が進むことになった。朝7時から前行(ほとんどパトゥル・リンポチェも出席された)。
8時から朝食。10時から13時頃までが講義。13時から食事。夕方18時からまた講義。夜にまた前行というペースだった。
昼の午後から講義がなかった理由だが、このとき、ゾクチェン寺でドゥクパ・リンポチェが僧侶に対し、特別な教えを授けていて、パトゥル・リンポチェもそれに参加していたからだ。弟子達にとっても、せっかくきたゾクチェンなので、昼からは観光の時間にも充てることができたので、不満はなかった。
ここでドゥクパ・リンポチェについて説明する。
9歳とのときからゾクチェン寺で修行された。そしてゾクチェン5世によって有名なドゥクパ・クンレイの転生者として認定された。対外的なゾクチェン寺の座主は40年間ペマ・カルザン・リンポチェであった。しかし内部の僧侶の指導のトップはずっとドゥクパ・リンポチェであった。パトゥル・リンポチの出家の儀を執り行ったのもドゥクパ・リンポチェだし、リンポチェの小僧時代から導いた主な根本ラマでもある。

ケンポ・トプテン・ロドゥ・ニマも「自分の根本ラマはドゥクパ・リンポチェとアチュン・トクデン・リンポチェだ」とおっしゃっていた。
ゾクチェン寺では第一線を引退されているが、ゾクチェン周辺では絶大な尊敬を集めている。
ドゥクパ・リンポチェとペナク・リンポチェは、凡人には、互いに比較することができないほど高い境地を達成しておられるが、空の顕れは異なる。ペナク・リンポチェは情熱的でエ ネルギッシュで、声も大きい。対してドゥクパ・リンポチェは、極めて静かで、無駄な動きがない。声も静か(昔刑務所で拷問を受けアバラを折られた影響もあり)。しかし彼がいると会場が静まりかえり、聴衆を静寂で、やわらかく、暖かなヴァイブレーションに包みこむ。個人的に会うことができたペマの話では 「ドゥクパ・リンポチェの前では何もかもが見通されてしまう、何も隠せないという思いが生じ、ありのままの自分でいるしかなかった」ということだった。
 
この日の朝食の際、驚くべき知らせが告げられた。今日、ドゥクパ・リンポチェの伝授に私たちが参加してもいいという話だった。
ゾクチェンに来た最大の目的だったドゥクパ・リンポチェに会える!自分も日本の仲間も心が躍った。昼食を取ると早々に日本グループでゾクチェン寺に向かっ た。私とペマは用事で少し出るのが遅れたが、幸いラマ・テンダが車でゾクチェンのほうから来て、私たちを見ると停まってくれ、車で送ってくれることになった。途中日本のグループに追いつき、Kさんの台湾のお母さんらを乗せてゾクチェン寺までいくことができた。

ゾクチェン寺に着くとすぐにゾクチェン寺の中に飛び込んだ。チベットの僧侶たちが大勢集まっていた。ざっと500人位はいたと思う。ゾクチェン寺は一見してとにかく広かった。まさに純粋なチベット風の大寺院だった。東京ゾクチェンセンターでも玉座の両脇によく掛けているギャルツェン(布製の円筒形の飾り)の大きな物が天井からいくつも 垂れ下がっていた。壁一面に仏画が描かれている。中二階の手すりが四方を囲っているが、その中2階から多くのタンカが掛けられていた。サンドパァリもそう だがゾクチェン寺も柱が多い。これがどうやらチベット式の建築法なのだろうか。ただ照明が少なく薄暗かった。
玉座のドゥクパ・リンポチェがよく見えるように僧侶の後ろに回りこみ、僧侶が比較的少ない奥までいった。ドゥクパ・リンポチェが遠いが確かにいる。皆五体投地をリンポチェに向かって始めた。 そして五体投地が終わって、座った。遠いけど、間違いなく自分はドゥクパ・リンポチェを肉眼で見ている。そしてこれから(言葉がわからないものの)教えを 受けることができると幸せいっぱいの気分だった。
1人のラマが笑顔で近づいてきた。ゲクだ。「申し訳ないが」ドゥクパ・リンポチェの指示で僧侶しか受けられないということだった。
他 の場所でも同じようにパトゥル・リンポチェの弟子達がゲクらに追い出されていたが、感心したことは、ゾクチェン寺のゲクはけっして無理やり外につまみ出そ うとはせず、笑顔であくまで諭すようにして出ていくように促していた。ゲクは日本だと日直にあたり、日本では日直が規律を守るために厳しく参加者に当たる のと大違いだった。後から聞いた話だと10歳位の子供に対しても、ゲクは無理やり連れ出そうとせず、笑顔で出て行くように説得を続けたそうだ。

私たちがお寺から出るとゾクチェン・リンポチェやチョーリン・リンポチェ、ドゥクパ・クーシュン・リンポチェたちが中から門のところまで来た。門の外にいるパトゥル・リンポチェの白人の弟子の中にアニがいた。チョーリン・リンポチェが「アニかと」確認し、そうだと答えると中に入っていいと合図した。しかしそ れ以外の弟子達は入れてもらえず、ゾクチェン寺の門を閉めてしまった。
しかしこれだけのそうそうたるメンバーが動くとは、ドゥクパ・リンポチェがいかにゾクチェンで尊敬されているかがわかる。

ぞろぞろと多くのパトゥル・リンポチェの弟子達が門が閉じられたことも知らずに、ゾクチェン寺に向って、うれしそうに歩いてきていた。私たちは比較的早かったので一瞬でもドゥクパ・リンポチェと空間をともにすることができたので、それだけでもましだったかなと思った。
「ともかくせっかくゾクチェン寺に来たんだから、皆で記念写真をとって、周辺を観光しよう」とペマが明るい声で提案した。
「そうだね」気を取り直して、日本グループの皆が同意した。
さてゾクチェン寺からこのとき初めてゾクチェン谷の方を見た!谷全体を見渡せた。「すげー!」
そのあまりの美しい風景に、心が奪われた!自分の主観ではこんな綺麗な風景は生涯見たことがなかった。ビデオでゾクチェン谷を見渡せる美しい風景を見たが、このゾクチェン寺から撮影した風景であることを悟った。ゾクチェン寺を開山した初代ゾクチェン・リンポチェであるペマ・リンジンもこの風景に心を奪われ、ここにお寺を建てることを決意したのかもしれないと想像を膨らませていた。日本グループ皆も感嘆の声を上げていた。
そして主観ではゾクチェン谷の中央に、金色に輝くサンド・パァリができたため、ますます風景がよくなったように感じた。

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初代ゾクチェン・リンポチェ;ペマ・リンジン
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ゾクチェン寺を背景にして写真を撮ったあとゾクチェン寺をコルラすることにした。コルラをはじめると、なんと!偶然にも懐かしいラマ・ペドゥに出会った。 チョーリン・リンポチェのアテンダントで一緒に来日された方だ。ラマ・ペドゥもこちらに驚いて、笑顔で握手を差し出してくれた。
挨拶をしたあと、ラマ・ペドゥにいったい何の教えをやっているのか聞いた。すると「ニンティク・ヤプシ」だということだった。チベット仏教に詳しいペマ、Sさん、ファリネッリさんがいっせいに「なんだそれなら在家が入れなくて当たり前だ!」と叫んだ。
よくわからなかったのであとで確認すると次のような話だった。
一般的にゾクチェンというと本行はテクチューとトゥガで、それを解説したジグメ・リンパ(らしい)のまとめた「イシェ・ラマの教え」などが最高の教えと思っている人が多い(私もそうでした)。
ところが「ニンティク・ヤプシ」とはそれを超える教えで、彼らの知識ではこれ以上ない教えだということだった。
まとめたのはクンケン(一切智)のロンチェンパだ。今帰国して、ゾクチェン研究所のセム6~7号合併号84ページに中沢新一先生による説明を見つけたので、それをそのまま引用する。
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ロンチェンパの密教に関する主要著作の中の『ニンティク・ヤシ(カムだとヤプシ)』という本があります。『ニンティク・ヤン・ラー・シー(四部からならニン ティク)』という本です。これはロンチェンパの主著です。若い時から晩年にかけ、長い時間をかけて書かれた非常に重要なものです。人類の思想にとっても、 極めて重要な意味を持っていると思います。
この『ニンティク・ヤン・ラー・シー』は、『ヴィマラ・ミトラ・ニンティク』。パドマサンバヴァ・ニン ティクである『カンドゥ・ニンティク』、『サモー・ニンティク』、『ラマ・ニンティク』の4つの部門と、それから『カンドゥ・ニンティク』の部分であるロ ンチェンパがつくった『カンドゥ・ヤンティク』を加えて成り立っています・・・彼(ロンチェンパ)の人生の創造の頂点、これを持って思想家ロンチェンパが 生まれた、ソクチェンというのが完成したという地点は、この(『ニンティク・ヤン・ラー・シー』の中の)『カンドゥ・ヤンティク』というテキストにおいてです。

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この教えは在家に伝授することはできるはずがない最高レベルの教えで、ドゥクパ・リンポチェが許可しなかったのは当然ということで皆が納得した。たぶん今朝アナウンスした法友が勘違いをしたのだろうと思った。

こ うした話を聞いて、自分としてはチベット仏教の世界、ニンマ派の世界、そしてゾクチェンの世界というものがいかに広大なものであるか改めて感動した。ロン チェンパといえば一般的には『7つの宝』が主著と考えると思うが、このような密教を集大成したテキストがあり、それを伝統の中で脈々と秘密裏に受け継いで いる。日本で翻訳されているテキスト、あるいは教えが開示されている範囲がたとえわずかであっても、それがどれだけの広大な教えの大海に連なっているか、 少なくともその入り口に自分が立っていることを自覚することができた。

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ここで、ゾクチェンという教えについて自分なりに簡単に触れる(主に『セム6~7号合併号』の6ページの中沢新一先生による『ゾクチェンの最古の5つの文書』やその他の文献を元に説明する)。
ゾクチェンの系譜の流れは、『虹の階梯』の534ページからその系譜が書かれている。これがニンマの正式見解というだけでなく、文献的にも裏づけられた系譜の流れである。
ゾクチェンという思想が最初に文献として確認できるのが、6世紀頃、インドで活躍したマンジュシュリー・ミトラによる『ガラップ・ドルジェの三要訣』や『石を洗練した金』などの文献である。
マンジュシュリー・ミトラは仏教学者としてすでに成熟を遂げてから、ガラップ・ドルジェという若者に弟子入りした。ガラップ・ドルジェは北インドで「因果の法を超越する」と「無努力の教え」によって特徴づけられる新しいタイプの仏教=のちにゾクチェンと呼ばれる思想を始めて人間界にもたらしていた。
中沢先生の言葉によれば「これらのテキストは難解であるが、それを通してとてつもなく重大で決定的なことが人類の思想に起こった・・・このとき人類の思想には決定的な飛躍が起きたのである」
ただしゾクチェンの教えは飛躍はあるものの、あくまでシャカムニの第2転法輪「中観=空性」の教えと第3転法輪「如来蔵=仏性」の教えを土台にしていて、疑いようもなく、仏教思想の流れにある。ケンポ・トプテン・ロドゥ・ニマからはゾクチェンとは「如来蔵を顕現する修行法」という説明を受けた。
このゾクチェンの思想は、ヴァイローツァナとヴィマラ・ミトラの2人によって、チベットにもたらされた。
系譜でいうと ①ガラップ・ドルジェ⇒マンジュシュリー・ミトラ⇒シュリ・シンハ⇒ヴァイローツァナ
②ガラップ・ドルジェ⇒マンジュシュリー・ミトラ⇒シュリ・シンハ⇒ジュニャーナ・スートラ⇒ヴィマラ・ミトラ
である。
ところがゾクチェンの教えはチベット以外の仏教国には伝わらなかった。そのため他の仏教国からみるとユニークな教えという印象を与えてしまい、ゾクチェンの教えがチベット土着の教えから形成されたというような俗説も生じさせてしまった。
しかし前述のセムの『ゾクチェンの最古の5つの文書』すなわちヴァイローツァナとヴィマラ・ミトラによる『古タントラ』を拝読しても明らかなようにゾクチェンの教えは北インドによって形成され、チベットではそれを忠実に引き継いだにすぎない。
もしチベットに元々あった教えであったなら、チベット人であるヴァイローツァナはシュリ・シンハのもとで何を学んだというのだろうか?そしてヴァイローツァナの遺したテキストと、インド人のヴィマラ・ミトラの遺したテキストに流れる思想がどうして一致するのか?そして両師の残したテキストと現在のゾクチェンの教えがどうして何ら異なることがないのか?そして上記3つのテキストと、マンジュシュリー・ミトラの遺したテキストの思想がどうして一致するのか?
この4つの一致ということを論理的に考えても、ゾクチェンの教えは、『虹の階梯』にあるニンマの公式見解のとおり、北インドにおいてガラップ・ドルジェやマンジュシュリー・ミトラによって人類にもたらされた教えであり、チベット土着の信仰に基づくものでもなく、まして他の国の思想に基づくものでもない。
さて、この人類の叡智とも言うべき、「因果の法を超越する」と「無努力の教え」であるゾクチェンの2つの系譜は、14世紀にいったん、ロンチェンパにすべて流れ込む。
ロンチェンパは、ニンマでは「クンケン(一切智)」という尊称をもつ、ニンマ最大の大学者である。
そしてロンチェンパによって大成され、再び多くの相承系譜に枝分かれし、現在のニンマ派まで綿々と清浄なる系譜が続いている・・・。
なお、どうしてゾクチェン寺の開祖、ペマ・リンジンが「ゾクチェン・リンポチェ」と呼ばれるようになったかというとペマ・リンジンは「ゾクチェンの教え」そのものの体現者と称されたからだと言われている。
どうしてゾクチェン寺と呼ばれるようになったかというと、この寺では皆「ゾクチェン」を修行していたからだと言われている。
それではこの一文の最後に『ガラップ・ドルジェの三要訣』を引用する(『セム6~7号合併号』72ページ。中沢新一先生訳)。
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自分の本性に直接対面する
この無比の境地に決住する
解脱に信をもって、直接触れ続ける
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話しを元に戻す。

さて、ゾクチェン寺をコルラし、少し休んだあと(高地のため運動するたびに休憩が必要)、自分とファリネッリさんはサンド・パァリでまだオーディオのセッティングが残っていたので、戻れるなら、戻らねばならなかった(ドゥクパ・リンポチェに会えるならどうなってもいいやと放り出してきたが)。またオーディオの用事がなければ、おそらくこのままゾクチェン寺に留まって、ドゥクパ・リンポチェがゾクチェン寺から出てくるのを出待ちしただろう。自分は行きに車に乗せてもらったことに味をしめ「お金で解決しよう」と5元程度でヒッチハイクをしようと考えた。しばらく歩いてやっと乗用車がやってきた。2人でヒッチハイクの合図をしたところ幸い停まってくれた。
停まってくれたので5元を突き出して「サンド・パァリ・ゴンパ」と言った。しかし、残念なことに前に2人、後ろの座席に大人2人と子供1人が乗っていた。
と ころが運転手がお金は入らないが、乗れ乗れと合図をし、後ろの人も子供をひざに乗せ詰めてくれた。5人定員の車だが、計大人6人と子供1人が乗った。チベットでは車に定員などなく、乗れるだけ乗っていい交通ルールとなっていることを知った。もちろんトラックの荷台や、オフロード車の貨物部分に乗れるだけの人を乗せるのもありだった。
車には助手席にラマ、後部座席にそのお弟子さん?在家の運転手とその奥さんと子供だと思われる構成だった。
皆さん非常に穏やかな表情をされていた。サンド・パァリで降ろしてもらい、もう一度ラマに5元を渡そうとしたが、断られた。
あとでペマに確認したが、チベット人の習慣では、少なくてもゾクチェン内のような近距離だったら、ヒッチハイクをしても、まずお金は受け取らない。そのかわり向かう方向と一致していなければ乗せてくれないということになっているようだ。

ついでに言うとサンド・パァリのテント村ではいろいろ貴重品が置きっぱなしであったにもかかわらず、泥棒の被害はなかった。
ただ物乞いはいて、みすぼらしい服をきたご高齢の方や、あるいは仕事がないのか、20代の若者もいた。外人の近くで何人かがうろうろしていた。特に物乞いの ポーズはみせずマニ車などをまわしている。ただお金をくれたら喜んで受け取る、くれそうもないとわかると立ち去るという感じだった。


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